2012 / 01 / 24 by GoKoyashiki
なぜ人を殺してはいけないのか?(永井均×小泉義之) 久しぶりに読み返してみる。 本書は永井均×小泉義之の噛み合ない対談(苦笑)を第一章に、第二章永井論文、第三章小泉論文、そして文庫版のみ第四章としてそれぞれ二人の論文が追加されている。 以下、永井の論を基に書く。 – 「なぜ人を殺してはいけないのか?」 家族でも、友人でも、恋人でもいい。こう問われたら、あなたはなんと答えるだろうか? およそ一般的な回答は、次のようなものだろう。 「人を殺していいということは、自分だっていつ殺されても構わないということになるんだよ。きみだって殺されるのは嫌でしょう?」
この発言は“自分が嫌なことは相手だって嫌なんだ”という、相互性の原理を前提とされている。それでは、その相互性の原理自体が否定された次の場合はどうだろうか。 「私はいつ殺されても構わない」 このような返答があった場合、実際にどう答えるかは別として、本質的には次のような路線で答えるほかはないだろう。
「きみがよくたって、他のみんなは嫌なんだよ。だからやめないと」 しかし、そこで理性的な相手が更に次のような問いを発した場合はどうか。 『ということは、最初の「きみだって殺されるのは嫌でしょう?」という方の論拠は放棄したんだね。つまり、私がいつ殺されても構わない場合、人を殺してはいけない理由はないんだね?」 ここまで来た時、相互性の原理に基づいた如何なる回答も、その効力を失うことになる。
永井はおおよそ次のように言う。 一般的に言えば、「人を殺してはいけない」という規範が存在する理由が、すなわちその規範に従うべき理由である。そして「人を殺してはいけない」という規範が存在する理由を説明するのは比較的簡単である。それは、単純化して言えば、多くの人が、自分が人を殺したいと思う以上に、自分が人に殺されたくないと思っている、という事実に基づくものであろう。そこから「人を殺してはならない」という社会契約が出てくるのは、よく理解できる道筋である。だが、問題はその次の段階にある。いま存在理由が説明された、それゆえ従うべきであるとされている理由もわかったその規範に、なぜ従うべきなのか、という水準で、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは立てられるのである。どんな場合にも、この水準の問いには、もう規範の存在理由によって答えることはできない。なぜなら、その【存在】はすでに前提にされているからである。(【】内は強調点) 『説得者は、あるいは一般的に世の中は、彼をどう説得しなおせば良いだろうか。どう説得しなおすにせよ、それに本質的な説得力がそなわるとは思えない。一般に、あるゲームからの降り方がそのゲームの内部のルールによって定められていたとしても実効性はないだろう。それに従わない場合の罰則もまたそのゲームの内部にしかありえないからである。この世の中から降りるつもりの人に、その降り方をこの世の中が規定してやっても説得力はないだろう』(原文ママ) どんな回答であっても、それらをすべて考慮に入れた上で、なお殺すという選択があった場合、実効性のある説得を施すことはもはや不可能だ。ということである。 これを永井は「邪悪なる真理」と呼ぶ。そしてこれが真理であることは、好むと好まざるとに関わらず、既に我々は体験的に知っている筈である。ここ日本に限定したって良い。今の今まで、ただの一日だって、ニュースから殺人の報道がなくなった日があっただろうか。もし「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、【本当の】答えがあるとするならば、この現前する事実は、一体どのように説明されるのであろうか。 永井は、第二章の「きみは人を殺してもよい、だから私はきみを殺してはいけない」という論文(何度読み返しても強烈である)の中で、この「邪悪なる真理」をどこまでも冷静(冷淡)に、論理的に解明してみせる。 – 「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは、こと社会に於いて、発すること自体タブーとされている。それは、タブーにしなければ社会にとって都合が悪いからそうするのであり、タブーにすれば社会にとって都合が良いからそうするのである。 子どもはこういう社会で育つ。大人は決してこの問いの存在を子どもに教えないし、子どもが、その無垢な純粋さでもってこの問いを発したとしても、存在そのものを認めはしないだろう(「人を殺しちゃいけないなんて、当然のことなんだよ。だからそんなことを聞くこと自体が間違ってるんだよ」というように)。それを永井は「善なる嘘」という。 永井は<子ども>である。それゆえ善なる嘘は語らないし、語れない。ただどこまでもまっすぐに、純粋な<子ども>の驚きと疑問で持って、常識と妥協せずに、真理を探求し続けるだけである。 『もし中学の先生が十四歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われたなら、少なくともこうは答えて欲しいとは思う。「きみのその問いはまったく正当な問いであり、そういう問いをどこまでもまっすぐに、常識と妥協させずに、とことん理詰めで探求する、哲学という領域がある。それは学習すべき学問なのではなく、自分自身で【する】ものなのだ。そして、それこそが本来の学問なのだ。だからほんとうは、他のあらゆる学問は、そういう問いと、それに基づくきみ自身の探求とに支えられて、はじめて意味を持つのだ。だから、きみがそういう疑問を持ったなら、きみははじめてほんとうの学問ができる端緒についたんだ」』(原文ママ)(【】内は強調点) 『哲学的思考というものは、ぜひともそのことを知りたいと願っている<子ども>に向かって語るという形で語るのが、いちばんふさわしいからだ(私自身、ながいあいだ自分が子どものときに考えたこと、感じたことから学んで来た)。その子が生きている実感から、私のこの議論のどこかにおかしいところがあるかどうかを尋ね、その子から学びたいと思う。もし問いが真正の哲学的な問いなら、大人はほんとうは子どもに教えるべき答えなど持ってはいない。大人はそのことに気づき、自分が子どもと同じであることを知るべきだし、同時に、そのことを子どもにはっきり教えるべきなのである。哲学的思考はただそのような仕方でのみ役立つ』 (原文ママ)
ここに誠実さを感じるのはぼくだけではないだろう。
第一章の対談の中で、小泉が「知性があったらたぶん殺さないんじゃないかという淡い期待があるんです」と語った。簡単に言えば、悪について徹底的に哲学すれば実際に悪いことをしないで済む。ということである。これにはぼくも賛成である。個人的な実感で言えば、「なぜ人を殺してはいけないのか?」について徹底的に考えている人間より、そんなことをまったく考えてこなかった人間の方が、人を殺す確率が高いように思われるからだ。 もし興味をもたれた方がいたら、本書を読んでみることをおすすめしたい。ここに書いたことは本書の核心には全然触れることが出来ていないし、何より永井の論の凄まじさは直接読んで体験した方がいいに決まっている。 – 最後に、決定的と思われた冒頭のやりとりにおいて、実は持ち出すことが可能なもう一つの論点をあげて終わりにしよう。 言うなれば、この問いを発する人もまた<子ども>である。彼(女)は「善なる嘘」が文字通り嘘であることを知っているからこそ、この問いを発したのだ。こうなったとき、この<子ども>に対して本当に誠実であろうとするならば、「善なる嘘」で誤摩化すのではなく、「邪悪なる真理」を語って聞かせるのでもなく、何よりも、哲学的思考の可能性を垣間見せることだけであるようにぼくは思う。
「例えきみが殺されてよくても、それが嫌であるような人のあり方を理解することは出来るでしょう?実際はきみ以外の殆どの人がそうなんだよ。そして、きみ自身がそういう人である場合を想定してみることも出来るでしょう?、だからきみは、人を殺してはいけないんだよ」
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2012 / 01 / 15 by GoKoyashiki
『ミルク』予告編 セミフ・カプランオール監督作品『卵』『ミルク』『蜂蜜』を鑑賞。 本作は三部作となっており、第三部『蜂蜜』において2010年度のベネチア国際映画祭グランプリを受賞している。 すべての作品のすべてのカットが絵画的な美しさで満たされており、台詞を極端にまで削り詩的な感覚で紡がれた映像美に耽溺する。バルテュスとフェルメールを尊敬するという監督の美的感覚に唸る。 『蜂蜜』においてグランプリを獲ったとのことだが、作品としては『卵』『ミルク』のほうが優れている。映像美にウェイトが置かれ過ぎてともすれば退屈な『蜂蜜』に比べ(実際『蜂蜜』に於ける多くの時間は退屈であった)、『卵』『ミルク』においては間合いの取り方が絶妙で、必要以上に画だけを押し付けたりはせず、(映画表現における)リズムとメロディでバランスよく導いてくれた。 『卵』においては隙はなく、三部作の中で最も完成度の高い、素晴らしい作品である。しかしながら、ここで特筆したいのは『ミルク』のあのラストシーンである。炭鉱、煙草の煙、暗闇、ヘッドライト。それらが純化された光と闇として画面を彩って行く。それは青年期のユスフの心の在り方そのものであり、映像表現が詩に生まれ変わる瞬間であり、ユスフが詩人となった瞬間である。ワンカットで数分間、目の前に光と闇が広がる。気絶してしまいそうなほど見事なカットであり、それが本当の意味での詩であるからして、私の言葉は失われ、この映画とは何であるのか、未だ上手く説明できないままでいる。
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2012 / 01 / 01 by GoKoyashiki
謹賀新年 新年明けましておめでとうございます。 本年も何卒宜しくお願い致します。 今年は3rdアルバムをリリースします。 現在鋭意製作中です。 もう暫く待っていてください。 アルバムの制作に取りかかってから、 ベネズエラの詩人であるエウヘニオ・モンテホのある詩に 心を奪われました。 その詩の冒頭は、こう始まります。 – The earth turned to bring us closer, it spun on itself and within us, and finally joined us together in this dream – 地球は回転し 人と人を近寄せる 地球は自転し 僕らの中で回る 夢の中で僕らが一つになるまで ぼくが音楽を作るときの心の中が、 そっくり映し出されているようでした。 また一年が始まります。 皆様の今年が、素晴らしい一年でありますように。
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2011 / 12 / 25 by GoKoyashiki
KENTARO KOBAASHI WORKS http://kentarokobayashi.net/ 小林賢太郎演劇作品『うるう』を東京グローブ座に観に行ってきました。 小林賢太郎さんは尊敬する表現者の一人。 他の誰でもない、彼にしか出来ない舞台。 琴線に触れる、素晴らしいショーでした。 ただ一点思うことがあります。 作品は、それが完成した時点ですでに作者の手を離れてしまっています(ここでの完成とは作品が上演され、それが受け手に伝わった時点を指します)。そこでの答えは、受けてそれぞれの想像力の在り方に委ねられています。ぼくはこのお話をとても美しい、ハッピーエンドなお話だと解釈しました(もっと言えば、ハッピーエンドに解釈したがっている自分がいたということです。あらゆる芸術は作品を見ているようでいて、実は自分の心を見ています)。やっとこの世にカウントされていない0から、誰かに必要とされる1になれたのだと。 もう一度言います。素晴らしいショーでした。ただ、野暮を承知で言いたいのは、作り手自らがフライヤーに「彼が少年と友達になれかなった本当の理由とは」なんて書かないでほしかったな。ということです。想像力を制限するようなことは、しないでほしかった。 まあ、いちいちこんなこというのも格好悪いですし、結局は作り手がどう思ってようと関係ないんですが(そのズレがぼくらしさであり、オリジナリティですから)、昨今は自分で感じたことじゃなくて他人が感じたことが正となっている傾向がとても強いので(芸術においてそれは無意味です)、野暮を承知でいってみた次第です。 あ、ギリギリだけど間に合った。 流れ無視で無理矢理にぶち込んじゃうけど、メリークリスマス!(笑)
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2011 / 12 / 19 by GoKoyashiki
ぼくのアーティスト写真も撮ってくれているフォトグラファーのchayamaiが クリスマスイブにzineをリリースするようです!
“We are all alone” Even I was lonely like a forgotten potted plant, I would like to look up as a tree grows in a roadside.
We are all alone. Therefore, we are waiting to meet you somewhere in this town.
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This is a newly taken photo collection by Mai Chaya who works in Tokyo. Finding a nameless tree in a roadside is her trigger.
Theme of this photo collection is a loneliness and its previous encounter.
They whom she found are us who are in anywhere. Wearing each color, they meet someone and are as staring ahead to flap. —————————————————————————————– 詳細はこちらからどうぞ! chayamai official web site :: http://chayamai.com/ - うおー。とうとうリリースですな。 どんな作品になってるのか楽しみです! 皆様もぜひチェックしてみてくださいな。 それにしてもトレーラーすげーカッコいい!
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2011 / 12 / 17 by GoKoyashiki
昨日は友人でMoholyNazyのハッチャクさん がオーガナイズするイベント YELLOW CAVE MIX@moreへ遊びに行ってきました。 スチャダラパーのSHINCOさん 今回のゲストのやけのはらさん 左がDJハッチャクさん。右がダイスケさん。 いやー、楽しかった。 ぼくはハッチャクさんのDJが大好きなのです。 偶数月に下北沢のmore でやってます。 DJの良さは保証しますよー。 帰途についた深夜三時。 汗ばむ身体に夜風は心地よく、空はとても綺麗でした。
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2011 / 12 / 15 by GoKoyashiki
恵比寿のgift_labで行なわれているYUKITOMO HAMASAKI | Exhibition - the next form that is formed -へいってきました。 正解を与えないことによって、正解を発見させる。 濱崎さんの作品のそのどれもに、流れている通奏低音。 鑑賞者が介入しなければ成立しない作品たち。 そこには何より、鑑賞者への深い信頼が横たわっている。 クリスマスまで開催されているようです。 詳細はこちらからどうぞ! more information >> http://www.matter.jp/works/yukitomo-hamasaki-exhibition.html
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2011 / 12 / 08 by GoKoyashiki
ゆったーりな更新が続いています。 お元気ですか? ぼくは必死に曲を作っています まだ時間はかかりますが、良いものに仕上がってくれると思います。 やはり、地下に潜る期間は必要なようです。 不器用は嫌ですな。みんなよくやれるもんだ。 – さて、ぼくが音楽担当として関わらせていただいたこともある映像ユニット群青いろの 7年振りの上映会がおこなわれるようです。
『群青いろ11』 12/18(日)17時〜 オーディトリウム渋谷にて開催 世界が注目する映像ユニット群青いろ 7年ぶり1夜限りの上映会『群青いろ11』にて 廣末哲万監督最新作『FIT』を上映します。 上映スケジュール ・
2011年12月18日(日)
17時開場/17時20分スタート 上映プログラム ・「FIT」(監督・主演:廣末哲万)上映
・「群青いろ1〜10」ハイライト ・最新作予告 高橋監督作品「あたしは世界なんかじゃないから」 ・トークショウ(群青いろ+「FIT」出演者) 料金
前売1200円(当日入場整理番号付)
当日1300円
劇場窓口にて前売券発売中!
チケットに関するお問い合わせは gunjyoiro11@prints21.co.jp まで [公式サイト] http://www.prints21.co.jp/gunjo11.html [劇場サイト] http://a-shibuya.jp/archives/1996 FIT | 106分 | HDV | 2010年 日本 | 廣末哲万監督が2年がかりで完成させた、狂熱のヒューマンドラマ! 現代社会に生きづらさを感じている人々が他者に触れ、 交わり始めたことで変化してゆく。 お互いが相手を傷つけ、傷つき、 それでもお互いを受け入れ、” FIT “してゆく。 いき詰まった人々へ贈る、応援賛歌。 キャスト 廣末哲万、並木愛枝、新恵みどり、結、新井秀幸、川井武、 垣原和成、シトミマモル、磯部泰宏、地曵豪 スタッフ 監督:廣末哲万 脚本構成:廣末哲万、並木愛枝
脚本協力:高橋泉
撮影:廣末哲万、高橋泉、並木愛枝、川井武 録音:川井武、中村謙吾 音楽:BUJI
製作:群青いろ —- 本作は東京国際映画祭、ベルリン国際映画祭、香港国際映画祭と、名だたる映画祭に正式出品されたようです。 久々の群青いろ楽しみだなー。 興味のある方はぜひ!
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2011 / 11 / 23 by GoKoyashiki
「落語とは、人間の業の肯定である」 立川談志 立川流家元、立川談志が逝った、 すべてを曝け出して生きる。 正にその通りの生き方だった。 心から、ご冥福をお祈りします。
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2011 / 11 / 13 by GoKoyashiki
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